2017年12月19日
2017年11月23日
白川伯王家とは?
白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の孫の延信王から始まり、古代からの神祇伯に伝えられた伝統を受け継いだ家柄である。 天皇家の祭祀を司どっていた伯家神道(白川流神道)の家元。
なお、花山天皇の子孫の源氏である花山源氏(かざんげんじ)に該当するのは、この白川伯王家のみであるため、両者は事実上同一のものである。
花山源氏と白川家
白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家。花山天皇の孫延信王(のぶざねおう)が源氏となり神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を独占。神祇伯に就任してからは王氏に復することとなっていたために、別名「王家」も称される。
しかし、室町時代になって吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して神職の世界を支配するようになると白川家の権威は衰退。江戸時代に伯家神道を称するも、寺社法度が制定されて以降吉田家の優位は動かなかった。
家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。
江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。明治時代には王氏を称することを止められ、子爵。
白川家の成立
白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、伯就任とともに「王」を名乗れたことである。「王」の呼称の権利は天皇との血縁関係で決まり、本来役職に付随する性質のものではない(詳しくは皇族参照)。臣下でありながら、王姓の世襲を行えるのは白川家にのみ見られる現象であり、特異なことである。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。
万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。当時の呼称は「源」または「王」であり、「白川家」や「伯家」「伯王家」と呼ばれるのはもっと時代が下ってからである。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王(源顕広)と白川家の人物が神祇伯に補任されているが(ただし顕康王は確証が無いとの見方がある)、この時期はまだ神祇伯は世襲されるものではなく、王氏、源氏及び大中臣氏によって奉ぜられるものと認識されており、事実先の四名の間に大中臣氏が補任されている。
顕広王は元々源姓であり、伯就任とともに王姓となり、伯退任後源姓に戻る最初の例となっている(ただし顕広王は伯就任以前から王姓であった可能性も指摘されている)。顕広王の王姓復命は源氏及び神祇伯の特殊性と婚姻関係によっていると考えられている。神祇とは神を祭ることで、その責任者は天皇であるほどの、朝廷にとって最も重要な行為であった。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。その神祇伯の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏の源顕房の養子となっているという、多くの要素により王姓復命が成立したのである。
顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、これらが先例となり、以後、白川家によって神祇伯の世襲化と伯就任による王姓の呼称が行われるようになった。以上の経過により、顕広王の王姓復命をもって白川家の成立とみなすことが多い(十三世紀初頭の資宗王によって成立したという見解もある)。 なお「白川」の呼称は十三世紀中ほどからしか確認できない。
神祇伯家学則にある神道の大要
「神道というものは、古今を通じて変わらない根本原則であり、いずれの国においても通用する大道であり、神道と武道(相撲を含む)は一つであり、身を修め、家を整え、国を治めるといったことの要領も、古事記・日本書紀・古語拾遺等の皇典を研鑚するうちにわかる。」とある
2017年10月19日
伯家神道は今でもあるの?
白川家は明治に入ってから途絶えた。代々口頭で教えを伝えてきたため、伯家神道も一家とともに失われたことになる。
2017年09月19日
伯家神道の教えはまったく伝わっていないの?
平田篤胤など、伯家神道の影響を受けた学者や神道の教団があるので、彼らを通じて現代にまで伝わっていると言える。
2017年08月19日
どうして伯家神道が話題になるの?
「2012年に日本が滅びる」という予言があるから。「伯家に伝えられた祝の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というもの。「祝の神事」とは伯家が代々の天皇に伝授する行法のこと。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位した1912年から100年後が2012年にあたる。
2017年07月19日
日本が滅びるとは、実際何が起こるの?
伯家神道に関連した予言から読み解くと、天変地異が起こり、生き残る人間はわずか3パーセントとか。あわや最後か……と思われたときに、「ミロクの世」(天国的理想社会)が訪れるそうだ。
2017年06月19日
2017年05月19日
結局、伯家神道の予言って何だったの?
自然と共存することができなければやがて人間は滅びる、というメッセージだったのかもしれない。
2007年08月23日
金帝・銀帝・銅帝・泥帝・哀帝
~道家の山蔭基央氏が著書で次のように語っている。
↓
明治の憲法が制定された時、京都の公家達は次のやうに言つた。 「此の憲法のある限り、今は金帝さまだが(今上皇帝をもぢり金帝と云ふ)、次は銀帝、次は 銅帝、次は泥帝、次は哀帝に成る」と。まことに、其の通りに成りつつある。 明治憲法は「祖宗の遺訓を守る」と言ひ乍ら、天皇に軍服を着せて「覇王(大元帥)」とな し、てんと恥ぢる事なく、憲法第一章・三條に於て、「天皇は~聖にして侵すべからず」と明 記した。 其の後は、天皇は國家機關の求める事に從つて國政・國事を行ふ「立憲君主」に成つていく。 此のことを指して京都の公卿達は異議を申し立てたのである。 まづ以て、天皇は~敕に基づいて生まれ乍らに祭祀王であられる。國民の尊崇は~祕の中にあ る。其れを輔弼する公卿達は、日常を~事の中で生活してきた。禁中(皇室)は~事が基本で ある。其れが日本國民の宗家としての生き方である。 『禁祕抄』(順徳天皇著・承久年間成る)は宮中の故實・慣例を記したもので、其の中に「禁 中は年中、~事を以て大事とする」との意が記されてゐる。皇室は幾度か危機に瀕したが、必 ず天皇は~事を守り祭祀王の道を守られたのである。 然るに「明治憲法では、御政務とて、~事中心の生活を侵害してゐる」と言ふのが、明治の公 家達の言葉である。此のことは「現行憲法」でも變はる事はない。ましてや「皇室外交」と て、天皇を政治外交の場に引き出すことは天皇の御本質を損なふものである。この予言だと、泥帝=明仁天皇であり、哀帝=徳仁親王ということになる。哀帝は「ないてい」であり、廃帝(皇位を剥奪・天皇では無かったことにされる)というふうに解釈できる。つまり、今の皇太子・徳仁親王は廃帝になるという不吉な予言なのだ。